昨年は、146冊の本を読んだ。丁度2.5日に1冊の本を読んだ計算になる。読書家の中には毎日1冊以上読む強者もいるようだが、これは僕の中では自己記録更新で、結構嬉しい。
読めば読むほど、読書スピードが速くなっていくのは、筋トレと一緒だ。そして、多少つまらないなと思っても無理矢理最後まで読み切ってしまえる体力もついた。もっとも、amazonや各種書評を参考に本を選ぶようになってからは、大きく外した本を買うことはないので、買った本はほぼ100%読んでいる。それに加え、20年以上前に買ったまま積読になっていた古典も20冊近く読めた。『ソクラテスの弁明』『若きウェルテルの悩み』『チベット旅行記』『沈黙の春』『死ぬ瞬間』など。「今頃読んだの?」と言われると恥ずかしいが・・・。
146冊の中から何冊か、ブログに更新はしなかったが印象に残っているものを選び、2回にわたって紹介。今日は小説、ノンフィクション分野から。
読めば読むほど、読書スピードが速くなっていくのは、筋トレと一緒だ。そして、多少つまらないなと思っても無理矢理最後まで読み切ってしまえる体力もついた。もっとも、amazonや各種書評を参考に本を選ぶようになってからは、大きく外した本を買うことはないので、買った本はほぼ100%読んでいる。それに加え、20年以上前に買ったまま積読になっていた古典も20冊近く読めた。『ソクラテスの弁明』『若きウェルテルの悩み』『チベット旅行記』『沈黙の春』『死ぬ瞬間』など。「今頃読んだの?」と言われると恥ずかしいが・・・。
146冊の中から何冊か、ブログに更新はしなかったが印象に残っているものを選び、2回にわたって紹介。今日は小説、ノンフィクション分野から。


最近堤未果の本が売れているようだ。僕も立て続けに、何冊か読んでみた。
『貧困大国アメリカ』三部作を読むと、「世界一リッチな国、アメリカ」というイメージが崩れ去る。1%の超富裕層が莫大な富を蓄積している影で、99%の国民が収奪され、貧困生活にドロップアウトしつつある。
そして、『政府は必ず嘘をつく』を読むと、日本にも今まさに、同様の変化が押し寄せつつあるという恐怖を覚える。
真の敵を見誤ってはいけない。尖閣や竹島問題で、お隣の中国や韓国と揉めている場合ではないのだ。ならば、アメリカかって?いや違う、我らが戦うべきは新帝国主義ともいえる巨大グローバル企業なのだ。アメリカは既に奴らに食い物にされてしまった国で、オバマもその手先として動いてるに過ぎない。




副題が「潜在的人間観のゆくえ」。
著者が東大助教授時代、人間行動学の講座で講義していた内容をまとめ直したもの。当時文化人類学の学生だった僕は、実は著者の講義を受けたことがある。内容にかなり期待して教室に入ったのだが、話がチンプンカンプン過ぎて、確か2回で脱落。周囲の学生も同じだったようで、最初10人近かった受講生が、2回目には3~4人に減っていた記憶がある。その時は生意気にも、「せっかく面白そうな内容なのに、先生の講義の仕方が下手だからわからない」と思っていた。
が、あれから20年以上経った今この本を読んで、考えを改めざるを得なかった。実際は、下條氏が提示する数々の実験結果があまりにこれまでの固定観念とかけ離れているために、当時の自分が能力不足で理解できなかっただけなのだ。(今もどこまで理解できたか自信がないが。)



写真は天の川。左上が織姫、右下が彦星。以下、本書より引用。
ところで、唐突な質問ですが、みなさんはなぜ一年のうちで七夕の日だけ、織姫と彦星が会うことができるといわれているのか知っていますか?
実は、旧暦の七月七日というのは、一年のうちでただ一度、半月が天の川の中に位置する日なのです。半月も天の川も、その明るさは共に、十七等星と同じです。天の川を形づくる無数の星々もこの日だけは半月の明るさにその輝きが相殺されるため、天の川は夜空から姿を消してしまうのです。天の川の流れが消えてなくなるため、織姫と彦星はめでたく会えるというわけですね。
こんなことは、高校時代天文部員だったよ、なんていう奇特な貴方は別にして、今時の普通の人はまず知らないだろう。僕ももちろん知らなかった。それに引き換え昔の人は、自然をよく観察し、そのリズムに従って生きていたんだなあ、と感心する。
ちなみに疑り深い僕は、それでも本当かなあと思って今年のカレンダーを見たら、旧暦の七月七日(新暦で八月六日)は、上弦の半月だった。ところで、満月が天の川の中に位置する日は、織姫と彦星は会えないのだろうか。月の明るさで織姫と彦星自体が姿を消してしまうのかな?誰か、知っている人がいたら教えて!






2年前から妻に薦められていた『ミュータント・メッセージ』という本を、先日やっと読んでみた。アメリカ人の中年女性医療関係者がオーストラリアの原住民であり採集狩猟民であるアボリジニの一団に招かれ、彼らとともに旅をした記録。旅といっても、アボリジニの生活リズムのままに、素足、裸同然で灼熱の原野を水や食料を求めてさすらい歩くもの。過酷な生活に何度もめげながらも、やがて彼らの精神的満足度の高い暮らし、現代人の失ってしまった感覚に気づいていくという、なかなか感動的な作品だ。
で、読んでいる途中にふと思い立って、amazonの書評を見ると、なんと、この作品が実話をうたっているが、ほとんどフィクションであり、現地のアボリジニからも抗議されていることが判明。なんだか、感動して損した気分になった。(この問題について詳しく知りたい人はこちらのサイトを参照してください。)

以前ヴィパッサナー瞑想の記事で書いたが、「慈悲の瞑想」をする意義というものがどうも今ひとつ納得できないでいた。この本は、買うのが恥ずかしくなるほど安っぽい題名ではあるが、慈悲喜捨の瞑想に関する簡明な解説書という書評があったので、読んでみた。実際1時間もかからずに読みきれたが、慈悲喜捨の概念を大づかみにできて、今の僕には非常に役立った。
著者は、1991年スリランカから日本に来て以来、上座部(小乗)仏教の布教に努めているスマナサーラ長老。なんと日本語での著書数、100冊超!
著者は、1991年スリランカから日本に来て以来、上座部(小乗)仏教の布教に努めているスマナサーラ長老。なんと日本語での著書数、100冊超!





今年一年間で硬軟取り混ぜ実に115冊の本を読んだ。昨年を上回り自己最高記録更新!
思えば、十代の頃も良く本を読んだり、テレビを見たりしていた。そしてそれは多くの場合、未知の世界を知るためのものであった。やがて大人になって、いろんな経験をし、いろんな物を見、いろんな気持ちを感じるたびに、「あ、これって、あの本に似てるな」とか、「いつかテレビで見たな」という一種のデジャヴュを伴うことが時々あった。
ところが、さらに歳を重ねるにつれ、今度は本を読んでいる時に(テレビはもう16年見ていない)、「あ、ここに書かれている街の風景、昔見たことあるよ」とか、「あ、この主人公の気持ち、あの頃の自分の気持ちそっくりだ、わかるわかる」とか、「これ、同じこと俺も考えてたよ」という風に、逆の意味でのデジャヴュを感じることが多い。つまり、読書が自分の過去を再確認する作業になってきている。そうなると、本を読む目もシビアになってきて、これは全然書き込めてない駄作だな、なんてことも一読してわかってくる。
良くも悪くも、それだけ自分も歳をとったということである。
思えば、十代の頃も良く本を読んだり、テレビを見たりしていた。そしてそれは多くの場合、未知の世界を知るためのものであった。やがて大人になって、いろんな経験をし、いろんな物を見、いろんな気持ちを感じるたびに、「あ、これって、あの本に似てるな」とか、「いつかテレビで見たな」という一種のデジャヴュを伴うことが時々あった。
ところが、さらに歳を重ねるにつれ、今度は本を読んでいる時に(テレビはもう16年見ていない)、「あ、ここに書かれている街の風景、昔見たことあるよ」とか、「あ、この主人公の気持ち、あの頃の自分の気持ちそっくりだ、わかるわかる」とか、「これ、同じこと俺も考えてたよ」という風に、逆の意味でのデジャヴュを感じることが多い。つまり、読書が自分の過去を再確認する作業になってきている。そうなると、本を読む目もシビアになってきて、これは全然書き込めてない駄作だな、なんてことも一読してわかってくる。
良くも悪くも、それだけ自分も歳をとったということである。


昨晩我が家で友人達を招いてクリスマスパーティをしたのだが、その席で、「内観」という一種の瞑想法を研修指導しているFさんと、最近池谷裕二が面白い、中でも『進化しすぎた脳』が最高!という話で盛り上がった。その後も、福岡伸一、カール・セーガン、クリシュナムルティの話題へと続き、知的に大いに刺激された。大学を出てこの方、他人と共通の読書体験で盛り上がることがほとんどなかったので、久しぶりにものすごく楽しいひとときだった。
