2年前から妻に薦められていた『ミュータント・メッセージ』という本を、先日やっと読んでみた。アメリカ人の中年女性医療関係者がオーストラリアの原住民であり採集狩猟民であるアボリジニの一団に招かれ、彼らとともに旅をした記録。旅といっても、アボリジニの生活リズムのままに、素足、裸同然で灼熱の原野を水や食料を求めてさすらい歩くもの。過酷な生活に何度もめげながらも、やがて彼らの精神的満足度の高い暮らし、現代人の失ってしまった感覚に気づいていくという、なかなか感動的な作品だ。
で、読んでいる途中にふと思い立って、amazonの書評を見ると、なんと、この作品が実話をうたっているが、ほとんどフィクションであり、現地のアボリジニからも抗議されていることが判明。なんだか、感動して損した気分になった。(この問題について詳しく知りたい人はこちらのサイトを参照してください。)
ネット上で、水車むらに深く関わっている明治大学の寺田教授が作ったプロモーションフィルムを見つけたので、今日はそれを紹介する。僕のだらだらした文章よりも、はるかに良く水車むらのなんたるかを伝えている。音楽も素晴らしい。
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これを見て、毎年ゴールデンウイークになると水車むらに通って、紅茶作りに励んでいた20代前半を懐かしく思い出した。人生の展望がまるで見えず、おまけに女の子と付き合うなんてこともまるでなく、かなり鬱屈した日々のつもりでいたが、あれはあれで誰にも負けない素敵な瞬間もあったんだなあ、と今になると思える。
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これを見て、毎年ゴールデンウイークになると水車むらに通って、紅茶作りに励んでいた20代前半を懐かしく思い出した。人生の展望がまるで見えず、おまけに女の子と付き合うなんてこともまるでなく、かなり鬱屈した日々のつもりでいたが、あれはあれで誰にも負けない素敵な瞬間もあったんだなあ、と今になると思える。
前回に続き、「水車むら通信」に連載していた「屋久島まで」の転載であるが、また前置きを。
僕が水車むらに行き始めたのが1987年。その時まだ回っていた水車むらの水車は、残念ながら現在は回っていない。昔風の大型低速回転型の水車は実は発電効率が悪いことが判明したり、水路の維持管理がなかなか大変だったり、と諸事情があるようだ。
水車の止まってしまった今、「水車むら」の目玉は紅茶である。あの当時ほぼ絶滅しかけていた国内産紅茶を、無農薬有機栽培で作り始めた。知らない人も多いと思うが、紅茶も緑茶も実は同じ茶葉から作られるのだ。製造過程で発酵させるかさせないかだけの違いである。但し、紅茶向きの品種というものはあり、幻の日本オリジナル紅茶品種「べにひかり」を発掘、栽培、初めて製品化したのは、水車むらである。初めて飲む人は少し土臭く感じるかもしれないが、紅茶と日本茶が混ざったような優しい味わいが特徴で、ミルクティーにすると特においしい。
1993年には、僕もなぜか水車むらで3人目の紅茶製造主任になり、その年の国内産紅茶のほぼ1割(約1トン強)を製造してしまった。屋久島に移住した今は、さすがに紅茶製造にタッチしていないが、いまだ愛飲している。本当においしいので、皆さんも是非、試してみてください。→水車むら紅茶の通販サイト
僕が水車むらに行き始めたのが1987年。その時まだ回っていた水車むらの水車は、残念ながら現在は回っていない。昔風の大型低速回転型の水車は実は発電効率が悪いことが判明したり、水路の維持管理がなかなか大変だったり、と諸事情があるようだ。
水車の止まってしまった今、「水車むら」の目玉は紅茶である。あの当時ほぼ絶滅しかけていた国内産紅茶を、無農薬有機栽培で作り始めた。知らない人も多いと思うが、紅茶も緑茶も実は同じ茶葉から作られるのだ。製造過程で発酵させるかさせないかだけの違いである。但し、紅茶向きの品種というものはあり、幻の日本オリジナル紅茶品種「べにひかり」を発掘、栽培、初めて製品化したのは、水車むらである。初めて飲む人は少し土臭く感じるかもしれないが、紅茶と日本茶が混ざったような優しい味わいが特徴で、ミルクティーにすると特においしい。
1993年には、僕もなぜか水車むらで3人目の紅茶製造主任になり、その年の国内産紅茶のほぼ1割(約1トン強)を製造してしまった。屋久島に移住した今は、さすがに紅茶製造にタッチしていないが、いまだ愛飲している。本当においしいので、皆さんも是非、試してみてください。→水車むら紅茶の通販サイト
今日は前回に続き、「水車むら通信」に連載していた「屋久島まで」の転載であるが、少しだけ前置きを。「水車むら通信」の発行元は、僕が20代前半の頃よく出入りしていた「水車むら」だ。
1980年代初頭、ロマンに燃える不良中年と若者達が静岡県藤枝に集まった。有機栽培でお茶を作っていた地元篤農家の臼井太衛さんと、脱原発・エコロジー(当時この言葉はまるで一般的ではなかったように思う)を研究していた都会の学者、そしてそのゼミの大学生たちである。まず江戸時代の茅葺き屋根の古民家を、地元の農家の方たちの手を借りながらも、自分たちで臼井さん宅の川向いに移築した。そして、この古民家で寝泊りしながら、「水土蘇生」を合言葉に、持続可能型社会のモデルケースたらんとする活動が始められた。具体的には、一極集中型大規模エネルギーである原子力発電へのアンチテーゼとして、環境負荷の小さい分散型小規模エネルギーである小水力発電を実践しようと、家の前を流れる小川の水を使って昔ながらの水車を作り発電した。これが「水車むら」の始まりである。
1980年代初頭、ロマンに燃える不良中年と若者達が静岡県藤枝に集まった。有機栽培でお茶を作っていた地元篤農家の臼井太衛さんと、脱原発・エコロジー(当時この言葉はまるで一般的ではなかったように思う)を研究していた都会の学者、そしてそのゼミの大学生たちである。まず江戸時代の茅葺き屋根の古民家を、地元の農家の方たちの手を借りながらも、自分たちで臼井さん宅の川向いに移築した。そして、この古民家で寝泊りしながら、「水土蘇生」を合言葉に、持続可能型社会のモデルケースたらんとする活動が始められた。具体的には、一極集中型大規模エネルギーである原子力発電へのアンチテーゼとして、環境負荷の小さい分散型小規模エネルギーである小水力発電を実践しようと、家の前を流れる小川の水を使って昔ながらの水車を作り発電した。これが「水車むら」の始まりである。
年に数回発行される「水車むら通信」というマイナーな同人誌。ここに僕も2年ほど前から、「屋久島まで-等身大の自分-」という題名で、屋久島に移住するに至った経緯を寄稿していた。この連載がこのたび5回で一応完結したので、一部改変、順番も少し変更して、このブログに転載することにした。今日は第1回目。
以前ヴィパッサナー瞑想の記事で書いたが、「慈悲の瞑想」をする意義というものがどうも今ひとつ納得できないでいた。この本は、買うのが恥ずかしくなるほど安っぽい題名ではあるが、慈悲喜捨の瞑想に関する簡明な解説書という書評があったので、読んでみた。実際1時間もかからずに読みきれたが、慈悲喜捨の概念を大づかみにできて、今の僕には非常に役立った。
著者は、1991年スリランカから日本に来て以来、上座部(小乗)仏教の布教に努めているスマナサーラ長老。なんと日本語での著書数、100冊超!
著者は、1991年スリランカから日本に来て以来、上座部(小乗)仏教の布教に努めているスマナサーラ長老。なんと日本語での著書数、100冊超!
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