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『ブッダの瞑想法-ヴィパッサナー瞑想の理論と実践-』・読書日記
ブッダの瞑想法
 屋久島の友人Fさんのホームページでヴィパッサナー瞑想というものを知り、その分野における日本の第一人者である地橋秀雄先生(グリーンヒル瞑想研究所所長)の解説書を読んでみた。
 このFさんは3年来の友人であったが、昨日初めてそのホームページを最初から最後まで通読してみて、実にすごい人だと感心した。今の日本に、ここまで精神世界の修行を積んだ人はそういないと思う。さらに、僕が何より彼を信用するのは、彼が正常な懐疑精神、相対化する目を持っていることだ。
 以前、カール・セーガンの『悪霊にさいなまれる世界』の書評でも書いたが、神秘への憧れと懐疑する精神、この両者を持ち合わせている本物の知識人は意外と少ない。特に宗教家という人たちは、自らの神秘体験を絶対視するあまり、排他的になったりしやすいものである。しかし彼は、修行オタクでありながらも、どこか非常に冷めた目で科学的、相対的に精神世界を見ているところがある。それが、僕の感覚ととても近くて気に入っている。
 そんな彼がすすめている三つの修行法(ヴィパッサナー瞑想、内観、ボディワーク)の一つとして、ヴィパッサナー瞑想に興味を持ったわけである。

 以下、しばらく、本の要約が続く。興味のない人には恐ろしく退屈だろうと思うので、これ以上読まないで下さい。


 瞑想法は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想とに大別される。サマタ瞑想は反復される言葉やイメージなどの瞑想対象に意識を集中し、最終的にはその対象と合一してしまうほどの深い統一状態(サマーディ、三昧)を目指していく方法。ヴィパッサナー瞑想は、今この瞬間に自分の心と体が何を経験しているかに気づき、事実だけをありのままに観察していく方法。そして、このヴィパッサナー瞑想こそ、原始仏教の瞑想法、つまりブッダが悟りを開いた時に最終的に拠り所にした瞑想法である。具体的方法として、身随観、心随観、慈悲の瞑想が詳述されている。

1.身随観
 体をゆっくり動かして、一瞬一瞬に実感される微妙な身体感覚に集中し、その気付き(以下サティと呼ぶ)を絶えず心の中で言語化(以下ラべリングと呼ぶ)して認識確定していく方法。
 こう書いても、具体的なやり方をイメージしにくいと思うので、歩く瞑想、立つ瞑想、座る瞑想とあるうちの、もっとも簡単な歩く瞑想を例にとって説明してみる。(なお、姉妹書である『実践ブッダの瞑想法』のDVDを見ると実際のやり方が一目瞭然である。)スローモーションで歩きながら、左右交互の足裏の微細な感覚に集中し、「離床」→「移動」→「接触」→「圧迫」、というように歩行に伴う一つ一つの感覚に心の中でサティを入れ、ラべリングして確認していくのである。途中で何か音が聞こえてそちらに気が行ったり、他のことに考えが行くこともある。その時は、中心対象である足裏感覚から外れていることにすぐにサティを入れ、いったん立ち止まって「音」、「雑念」というようにラべリングする。ラべリングにより対象の客観化、対象化が起こり、それを手放すことができる。その後で、また足裏感覚への集中に戻る。こうして中心に注意を絞ろうという努力を繰り返すことによって、心の散乱状態が鎮まり、また執着を捨てる訓練にもなる。
 そして、「本当に存在が確かめられるものは、床を踏んで圧しつぶされている肉の圧迫感や、その圧が抜けていく感覚。」「圧迫感というセンセーションが生まれて変化し滅していく。「足」が上げられると、その圧迫感が抜けていく感覚が生起し、移ろい、消え去っていく。身体というものは、固定的な実体として存在しているのではなく、無常に変滅している「現象」であり、「変化のプロセス」にすぎない」。「このような存在の無常性が洞察されていく時、自分の体や愛する人の体に対する渇愛や執着は、本当は体という概念にしがみついていただけではないのか、と根本的な錯覚(無明)が壊されていく可能性がひらかれるだろう」。

 ただし問題がまだある。この身随観を訓練することにより、欲望や嫌悪といった悪い雑念が起きてもすぐにサティを入れてそれを瞬間的に消滅させることができたとしても(これができるだけでも心が煩悩に占拠されつくすことはなくなるのだが)、心の反応パターンそのものを変えない限り、悪い雑念は次から次へと生まれてくる。このような問題のある反応パターンを、根本的に変えてしまう「反応系の心の修行」として、以下に述べる心随観と慈悲の瞑想がある。

2.心随観
 一瞬一瞬の心の状態に気付き、ラべリングしていくこと。
 身随観では、心に何か思いが浮かんだ時「雑念」といった大雑把なラべリングをして、体の感覚に戻るのだが、心随観では、その内容に一歩踏み込み分析した上で、「愛欲」「嫉妬」「興奮」「失望」「執着」などと細かくラべリングをする。自分の今の心にぴったりの言葉が見つかってうまいラべリングができると、通常の自己理解のレベルを超えて、抑圧されたコンプレックスやトラウマなど深層意識にまで洞察が及ぶことも珍しくない。そうやって深いレベルまで自己理解することが自己変革につながっていく。
 しかし、心随観は身随観よりも難しい。理由の一つは、心理現象には物理的な手ごたえがないのでサティを入れるのが難しいこと、もう一つは、強烈な心の現象ほど本人が巻き込まれ、のめり込んでいるためサティが入らない(客観化、対象化ができない)ことである。

3.慈悲の瞑想
 慈悲の言葉を唱えるだけ。これを繰り返すことによって、慈悲の心を、自分たちの反応系の心に組み込んでいく訓練。(つまり、これは狭義のヴィパッサナー瞑想ではなく、サマタ瞑想の範疇に入る。)慈悲の言葉の文言は以下の通り。
 Xが幸せでありますように
 Xの悩み苦しみが無くなりますように
 Xの願うことがかなえられますように
 Xに悟りの光が現れますように
(Xには、私、私の親しい人々、生きとし生けるもの、私が嫌いな人々、私を嫌っている人々が順番に入っていく。そして最後に)
 すべての衆生が幸せでありますように
 すべての衆生が幸せでありますように
 すべての衆生が幸せでありますように

 以上で、本の要約は終わり。


 生き方に悩んでいた20歳の頃、クリシュナムルティの『自我の終焉』を繰り返し読んで、自分が悟る道はこれしかないと思った。今日から俺は24時間ひたすら思考の観察に努めよう、そして思考を停止させ、自我を消滅させ、悟りの境地に達するんだ、と意を決して始めてみた。が、すぐに、思考を追い続ける作業に脳が疲れてきた。そして、外界の刺激を受けると思考が複雑になって余計大変なことに気づき、寮の自室に閉じこもり、友達が来てもほとんど相手にせず、挙句の果ては、一日中ひたすら睡眠の世界に逃げ込む羽目になった。結局わずか3日で挫折!
 その後、クリシュナムルティが晩年「私の教えを理解できたものは一人もいなかった」と言ったらしいと聞き、ああ、僕だけじゃなかったんだと安心。以後悟る道をあきらめ、俗世間で幸せになる方法を、一生懸命考えるようになった。(その時非常に参考になったのが、D・カーネギーの著作である。これはこれで、すごい本だと今でも思う。)
 その後の宗教的体験と言えば、5年前フリーターとなった時、修験道の大峰奥駈行に9日間参加させていただいたことくらい。この時も、自分の心の準備が全くできていなかったため、残念ながら得る物はほとんどなかった。むしろ、「修行しても俺は何も変わらないぞ」という妙に屈折した自信がつき、今では妻に「自我男(じがお)」と揶揄されるまでに自我の強い男が出来上がってしまった。

 だが、一昨年屋久島に家を建てるための土地を購入したあたりから、自分の人生の行く末が見えてしまったような気がして、言い知れぬ空漠感に襲われることが多くなった。さらに昨年秋から、自分の我執の強さが際立ってきて、思い通りにならない悩みを抱え続けながら生きていくことがどうにも苦しくて仕方がなくなってきた。そのつらさから、周囲の人にもかなりの迷惑をかけるようになってきた。この苦しみの源は、どうも自分の内面世界の混乱にあるようであり、本当に自分が求めているものは何なのか、探りたくなった。
 そんな訳で、20年ぶりに真剣に自らの精神世界に立ち向かおうという気になっている。
 で、立ち向かう方法を選ぶ時基準になるのは、やはりどうしても20歳の時に読んだクリシュナムルティである。グルを持たず、教義もテクニックもなしに、ひたすらシンプルに自分の思考を観察していけ、という彼のクール極まりない教えは、論理的に完全に一貫性があり、今でも惹かれ続けているから。でも、彼の突き放し方は半端じゃないんだよね。
 以前格闘技をやっていた関係で、変なたとえになるがちょっとご容赦願いたい。
 「どうしたら最強になれるか」という問いに対するクリシュナムルティの答えは、「柔道やボクシングをしても、その型にはまった動きができるようになるだけで、その世界の最強にしかなれません。真の最強になるには、実戦の喧嘩の中で、自分の自然の体の動きを感じていくことです」というような感じ。その言葉を信じて、強くもないうちにいきなり街で喧嘩を始めたら、ピストル持ったチンピラに一発撃たれておしまいじゃないの?みたいな・・・。
 それに比べると、ヴィパッサナー瞑想は、ルールはほとんどない実戦様式だが、力を多少抜いたスパーリングで練習を重ねることで最強を目指すという感じか。クリシュナムルティほど純粋ではないが、教え方が親切で、初心者でもある程度は強くなれる気がする。そして、他の方法に比べると一番クリシュナムルティに近いと思う。

 しかし、ヴィパッサナー瞑想で二点引っかかるところがあった。
 まずは、心随観で心のラべリングをする際、分析に分析を重ねて、適切な言葉を探していく作業について。グジュグジュに絡み合った複雑な心の動きを、ラべリングでたった一つの単語に置き換えることで完全に消却するなんてことが、本当にできるのだろうか?確かに、ラべリングという作業で、客観化、対象化が進むということは何となくわかる。でもそれって、精神分析でカウンセラーに分析してもらうのとほとんど同じじゃないのだろうか?やはり、思考や想念は、その湧きあがってくる一連の文脈のままに観察しなくちゃ、あるがままの自己理解にはつながらないのじゃないだろうか。その方法だと、思考と自己を同一視しやすくて、実際に観察するのは困難を極めるというのは想像できるが・・・
 もう一点は、慈悲の瞑想について。「この薬はあなたによく効くから、だまされたと思って飲んでみなさい」と、見たこともない薬を知らない人から突然渡されても、「はいそうですか」って飲めないでしょ?それと同じで「幸せになるために、とにかくこれを繰り返しなさい」といわれても、自我の強い自分には、なかなか素直に受け入れられないものがある。僕がもし、こういうことを盲目的に信じられる人間だったら、とっくの昔にクリスチャンなりイスラム教徒なりになってたはず。それに、慈悲深い人間にならなきゃ、という目標を掲げて自分を変えていくのって、どこか偽善的というか無理してる気がして好きじゃない。
 その一方で、自分に一番欠けているのはこの慈悲の精神だというのは、最近痛感しているから、心の反応系を何とかしたい気持ちはものすごくある。うーん、どうしたものか。ヴィパッサナー瞑想ではなく、内観に頼った方が近道なのか?ただ、内観はヴィパッサナー瞑想以上に、方法論が確立している分、予想通りの結論に誘導されるだけっていう気がして、ひねくれものの自分としては、正直抵抗がある。困った。

 来週末、東京での瞑想会に参加して、地橋先生に直接お尋ねしてみようと思う。

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