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屋久島まで -等身大の自分- その1
 年に数回発行される「水車むら通信」というマイナーな同人誌。ここに僕も2年ほど前から、「屋久島まで-等身大の自分-」という題名で、屋久島に移住するに至った経緯を寄稿していた。この連載がこのたび5回で一応完結したので、一部改変、順番も少し変更して、このブログに転載することにした。今日は第1回目。


 東京・神田生まれの都会っ子の僕がなぜ南の島を目指すようになったのか。まずはその辺の事情から書き始めよう。

 僕が育った家は、両親と兄が大変口うるさく干渉してくる家庭だった。今振り返ると、この家族への反発が強かったのだと思う。とにかく小さい頃から周囲に対する不適応感、生きにくさのようなものをぼんやり抱えていた。
 高校時代、文化相対主義という概念を学んだ。フィールドワークを通して異文化世界を知ることで、今までの自分のちっぽけな価値観をゼロから再構成できる。そうすれば、この生きにくさも何とか解消できるのではないか。そんな期待を胸に、最初の大学では、文化人類学科に進学した。
 といっても、大学の講義にはほとんど出ず、今は無き駒場寮で自分の好きな本だけ読む毎日。この頃強く感銘を受けた本が、サモアの酋長が現代文明を批判して記した『パパラギ』という本。(但し、この本が実はフィクションであるということを最近知り、大きなショックを受けた。)この影響なのか、構成員がほぼ全員幸せに暮らせる社会、つまりユートピアが今もこの地球のどこかにあるはずだと思い始める。さらに真木悠介の著作で、ユートピアを自分達の手で作り出そうとするコミューン活動の存在を知る。

 19歳の冬、和歌山県奥地の村で、ミカン刈りをしつつヤマギシズムを体験する合宿、「若人楽園村」に参加することにした。
 ヤマギシ会は、戦後山岸巳代蔵によって作られた、農業・酪農を基盤として自給自足を目指すコミューン団体である。現在でも日本各地に30箇所以上、ブラジル・スイスなど海外にも数箇所の「実顕地」を持ち、一応世界最大の農業系コミューンの地位を保っているようではある。が、80年代当時は、東京の街角でも生産物を売り歩くヤマギシのトラックを良く見かけ、今よりもはるかに勢いがあった。

 村に入ってとにかくびっくりしたのが、彼らが謳う「無所有一体」ということの徹底ぶりだ。
 ヤマギシズムに共鳴して村に参加する人間は、全財産をヤマギシ会に寄付して、集団生活に入るのだ。これぞ究極の共産主義か?(参加後にヤマギシ会に疑問を感じて脱退する際、寄付した財産を返せ返さないで裁判になったケースもあるようだが、何も返してもらわず裸一貫で辞めて行った人も多いようだ。)村で子供が生まれても、誰のものでもない、つまり「無所有」。幼児期から高校まで平日は親とは離され、集団で育てられる。
 「一体」に関して言えば、労働も、食事も、深夜まで及ぶ「研鑽」という名の独特の話し合いも、常に集団行動。合宿中はとにかく忙しく、自分一人の時間など全くない。ヤマギシには日曜休日もなく、体育会系クラブの合宿生活が一生延々と続く感じと言えば分かってもらえるだろうか。
 何の予備知識もなく無防備に単身潜入した僕にとって、頭の中を嵐が吹き荒れるような体験であり、たった4泊3日間だったのに、体も頭もほとほと疲れ果てた。
 が、合宿が終わり、朝の満員電車で寮に帰る時、未だかつて経験したことが無いほど意識の高揚している自分がいた。周りの風景が妙に生き生きして見え、対照的に朝から疲れきったサラリーマン連中には、「君も本当の人生に目覚めよう!」と語りかけたくなる。フォーク歌手岡林信康が、ヤマギシ会の「特講」に参加した後に、『申し訳ないが気分がいい』という名曲を作っているが、まさにそんな感じ。ただ残念ながら、そんな高揚感も一週間ほどで消え去った。

 ヤマギシの「研鑽」は、絶対的な教義というものが存在していない以上、「洗脳」や「宗教」とは言い切れないのかもしれない。でも、僕は素直に受け入れられなかった。何かが間違っている気がする。でも、何が間違っているのかうまく指摘できない、それがもどかしかった。(この1~2年後、「自己啓発セミナー」の存在が広く社会的に問題となった。ヤマギシズムと同じような手法をとる集団が他にもあり、またそこにはまってしまう若者が多数存在することを知って、なーんだ、僕だけじゃなかったんだ、と少し安心した。)
 ヤマギシはもういいや、そう思って別のコミューンを訪ね歩いたりしていたある日、僕の寮の部屋に、和歌山の合宿で一緒だったヤマギシ会のマドンナ(18歳・冨田靖子似)が訪ねて来た。「日本の最高学府=東大」はヤマギシ会にとって最重点攻略大学だったのだろう。マドンナ直々に大学構内でビラを撒きに来たついでに、僕のオルグに立ち寄ったという訳だ。頭の中ではそう分かっていても、目の前のマドンナの魅力にはかなわない。愚かな僕は、いつの間にか春の合宿への参加を申し込んでいた。

 春の合宿は、北海道・道東の別海で、10日間乳牛の世話をするというものだった。ヤマギシズムの実態はある程度分かったつもりでいたので、今回は一人わがままを貫いて、のんびりマイペースで牛の乳搾りを楽しもうという算段だった。ところが、行ってみるとやはり、そうは問屋が卸さない。
 真っ暗な朝の4時、空気も凍り付いている中から起き出して、牛の糞掃除だの、角切りだの、お産介助だの、とにかく酷使される。おまけに肝腎の乳搾りは、完全に機械化されていて一回もさせてもらえず。夜は夜で、車座になって11時過ぎまで延々と「研鑽会」。そして、やっと眠れるかと思いきや、用意されているのは、寒さ対策のためと称して、野郎二人で一枚の敷布団。ふざけるなー!ヤマギシ、糞食らえー!
 10日間、とにかく耐えるだけの日々。マドンナの尻にホイホイ付いてきてしまった自分のおっちょこちょいさを心底恨んだ。

 しかし!しかしである!!とにかく耐えるだけで収穫など何もないかと思えたこの10日間に、実はその後の将来を決定する極めて重要な教訓を二つ得ていた。
 その一.自分は非常に怠け者である。
 特に、やる気のしないことを人に強制されて働くということがまったく駄目だ。
 その二.自分は寒いところが苦手である。
 特に自給自足なんて大それたことを目指すなら、決して無理してはいけない。

 そして5月。人生をリセットしようと水車むらに遊びに行った僕は、臼井さんに「君は将来何がやりたいの?」と聞かれた。

 「南の島で農業がやりたい。寝転んでいても、裏庭で勝手にバナナがなって、楽に自給自足ができるから。そして小説家に・・・」

 その場の思いつきで言ったこの一言が、まさか後々の人生を大きく左右するとは、当時思いもしなかった。
 臼井さん、この一言がいたく気に入ってくれたようで、その後、水車むらに人が来るたびに、この話をして僕を紹介する。そんなことが10年以上続くと、さすがの僕もだんだん後に引けなくなってしまったのである。          (つづく)



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