スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
屋久島まで -等身大の自分- その2
 今日は前回に続き、「水車むら通信」に連載していた「屋久島まで」の転載であるが、少しだけ前置きを。「水車むら通信」の発行元は、僕が20代前半の頃よく出入りしていた「水車むら」だ。
 1980年代初頭、ロマンに燃える不良中年と若者達が静岡県藤枝に集まった。有機栽培でお茶を作っていた地元篤農家の臼井太衛さんと、脱原発・エコロジー(当時この言葉はまるで一般的ではなかったように思う)を研究していた都会の学者、そしてそのゼミの大学生たちである。まず江戸時代の茅葺き屋根の古民家を、地元の農家の方たちの手を借りながらも、自分たちで臼井さん宅の川向いに移築した。そして、この古民家で寝泊りしながら、「水土蘇生」を合言葉に、持続可能型社会のモデルケースたらんとする活動が始められた。具体的には、一極集中型大規模エネルギーである原子力発電へのアンチテーゼとして、環境負荷の小さい分散型小規模エネルギーである小水力発電を実践しようと、家の前を流れる小川の水を使って昔ながらの水車を作り発電した。これが「水車むら」の始まりである。

 前置きは終わって、以下「屋久島まで」の本文。

 機首を落とし始めた飛行機の下に見える、真っ黒な島影。今まで7時間も海しか見ていなかったから、懐かしい陸地の姿だった。島の外周には光がポツポツと点在しており、ここが人間の住む島であり、文明の影響も及んでいることがしれる。もちろん文明といっても、東京のようなネオン街があるわけではない。その証拠に、光っているのは全て裸電球の明かりのような橙色の光である。一部の裕福な家庭だけが、自家発電しているのかもしれない。
 ああ、ここにはどんな人たちが暮らしているのだろう!そして、僕はこの島に居場所を見つけられるのだろうか?期待と不安でいっぱいの僕を乗せた飛行機は、間もなくフィジー・ナンディ国際空港に着陸した。

 臼井さんに「南の島で農業を」と大見得をきったはいいが、その後も極真空手以外何もせず、無為徒食の大学生活を送っていた。そんな人間にも容赦なく時間は過ぎ去り、トコロテン式に卒業学年になってしまった。勉強が嫌いなので大学院に進む気はない。かといって、何かほかに明確にやりたいことがあるわけでもない。
 世はまさにバブルの絶頂期。世界恐慌の今となっては嘘のような話だが、周りには就職内定を5社も6社ももらって、どこを切ろうか真剣に悩んでいる学生が多かった。一方僕はといえば、まるでやる気のない就職活動の結果、日本アイビーエムにだけ内定をもらえた。とりあえず初任給は高そうだけど・・・やっぱり働く気になれない。入社まで残り5ヶ月。うーん、困った。
 事ここに及んでようやく、日本脱出をかけて、真剣に島探しを始める決意をした。
 まずは、手近にいた文化人類学のF助教授に聞いてみる。(課題が多くて、厳しい彼の講義にはほとんど全く出席しなかったのだが・・・)
 「世界中で、最も南の島の楽園イメージに近い所はどこですか?」
 いかに大学時代勉強しなかった僕でも、南の島が全てハッピーなわけではないこと、水や食糧が不十分だったり、内戦で生きていくのも大変な島もあることは知っていたのだ。あえてそういう島に行って、救援活動に身を捧げるのも一つのすばらしい人生だと思う。しかし、安直極楽主義者の僕が目指す方向とは違う。間違えてはいけない。
 助教授曰く、「南太平洋のポリネシアからメラネシア。その中でもフィジー、サモア、トンガかなあ」。世界中をフィールドワークしてきた彼の言葉だけに説得力があった。
 目的地さえ決まれば、善は急げ。たった2週間で書き上げたインチキ卒業論文(『採集狩猟民社会の生態人類学的研究』)を大学に提出すると、その足ですぐフィジーに向かったわけである。人生初の飛行機、そして海外旅行。タイムリミットは4ヶ月。

 飛行機を降り立った途端、むっと湿った空気が鼻腔の奥へと入り込み、脳天を直撃した。熱帯地方ゆえ暑いのは予想していたが、それ以上にこのムワッとした空気の重さに僕はたちまち魅了された。人間の思考力、理性を奪いかねないこのけだるさ。まさしくモームの『雨』の世界なのである。
 さて、感激しているのもいいが、今夜の寝床を探さないといけない。もう24時近いのだ。空港前にはホテルらしき建物はない。さてどうしたものか、と思案していると、飛行機内で知り合った女性が、しばらく私たちと一緒に行動しないかと、親切にも声をかけてくれた。彼女は日本の看護婦。以前の職場の同僚が青年海外協力隊員としてフィジーで働いているので、その友人の所に遊びに来たという。なんでも、現地で働いている日本人と一緒に旅行すれば、リゾートホテルも観光客の半値で泊まれるらしい。根がケチな僕は、それを聞いて、彼女たちのご厚意に甘えることにした。

 翌朝、市内のホテルの外から聞こえてくる雄鶏の鳴き声で目が覚めた。屋久島で暮らす今となっては格別のことでもないのだが、それまで東京しか知らなかった僕には、鶏の鳴き声すら新鮮で、ワクワクする体験だった。初めて見る熱帯の景色はどんなかな、と外に出ると、バナナの生い茂った庭先で、日焼けした(というより、メラネシア人は黒人のように真っ黒なのだが)おばちゃんが原色バリバリの腰布やTシャツを鉄線に干していた。
 「これだよ、これ!僕が望んでいたのは!」つくづく単純な男である・・・

 その日、看護婦のお姉さんたちについて行ったリゾートアイランド・マナ島の海は最高だった。(あれ以来世界各地の海で潜ったが、マナ島を越える感動は未だない。)
 生れて初めて見る、海の中の広大なお花畑。竜宮城もかくやと思わせる珊瑚と熱帯魚の織りなす絶景に、最初こそおっかなびっくりだった僕も、すぐに時の経つのを忘れてひたすら素潜りで遊んでいた。
 だが、そんな楽しい日々も長くは続かない。いや、続けてはいけないのである。だって僕はあくまでも永住場所を探しに来たのであって、観光に来た訳じゃないのだから。
 3日後、彼女たちに別れを告げ、僕の本当の旅が始まった。

 まず、首都スバに向かうローカルバスに乗った。外国人で乗っているのは僕一人。車内には、現地の流行歌がガンガン流れ、いい雰囲気である。いつしか混んできて満席になると、中高生位の少女が次々と立って席を空けた。で、彼女たちは立ったままでいるのかと思いきや、ななんと、知らない男たちの膝の上に横座りになるではないか。おお!今度は僕の所に来いよ、いつでもウエルカムだぜ、と待つこと2時間以上。期待むなしく、バスは終点スバに着いた。
 さて降りようとしたら、「無い!」のである。財布が。半ズボンのポケットに入れていたのが、外にはみでたのだろう。椅子の下にも潜って一生懸命探したが無かった。バスの運転手にも尋ねたが、落とし物の届け出はないとのこと。ようやく、僕は、落とした財布を誰かに持って行かれた、もしくは最初からすられたんだということに思い至った。ショックだった。金を失ったこと以上に、楽園と思っていたこの島でいきなり悪い人間に出会ってしまったことが。僕の勝手な期待を裏切られた気がした。
 相当青ざめた顔をしていたのだろう。バスを降りる時にアフロヘアの若者が声をかけてきた。「俺は、宣教師だ。困っているなら、俺に付いてこい、泊めてやるから。」
 日本でこんな声のかけ方をされたら、絶対に信用しないが、ここはフィジーである。捨てる神あれば拾う神あり、渡りに船と思い、彼の誘いに一も二もなく飛び乗った。
 市内バスに乗り換え辿り着いた「彼の家」は、スバ郊外の住宅地の中にあった。家に着くと彼はそこにいた友人に僕を紹介して、そのままどこかへ出かけて消えてしまった。後に、これは彼の家でも友人の家でもなく、彼の友人が従弟の家に一時的に居候をしているだけだということが判明した。
 恐るべし、フィジアンのいい加減さ。               (つづく)


 

Comment

管理人にのみ表示する


Track Back
TB*URL

Copyright © 源頭の風景を求めて・・・. all rights reserved.
Design by Pixel映画山脈

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。