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屋久島まで -等身大の自分- その4
 ネット上で、水車むらに深く関わっている明治大学の寺田教授が作ったプロモーションフィルムを見つけたので、今日はそれを紹介する。僕のだらだらした文章よりも、はるかに良く水車むらのなんたるかを伝えている。音楽も素晴らしい。

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 これを見て、毎年ゴールデンウイークになると水車むらに通って、紅茶作りに励んでいた20代前半を懐かしく思い出した。人生の展望がまるで見えず、おまけに女の子と付き合うなんてこともまるでなく、かなり鬱屈した日々のつもりでいたが、あれはあれで誰にも負けない素敵な瞬間もあったんだなあ、と今になると思える。

 今回の「屋久島まで」は、そんな20代前半の最後の記録である。

 ふと目覚めると、板敷きの部屋で寝ていた。目覚める前から続く体の揺れる感じが、自分が船に乗って航海中であることを思い出させた。どこからかぼんやりと入ってくる光で、船底にいるらしいことがわかる。周りを見回したが、誰もいない。
 急に、自分が今乗っかっている板の下が一体どうなっているのか気になり始めた。試みに板を一枚引っ剥がしてみることにする。幅20cm、長さ1m、厚さ1cm位の薄い木の板で、釘ごと簡単に剥がれた。
 すぐ下は海であった。剥いだ場所から船内に海水が流れ込んでこないのが不思議なのだが、その時はそんなことに思い至る余裕も無かった。あたかも珊瑚見物のグラスボートでガラス越しに海中を覗き見るように、板一枚分のスペースから果てしない海の底が見えた。足元の蒼い空間が、漆黒の深みへ落ち込んでいく。あたかもブラックホールのように、光をはじめ全ての物を吸い込んでしまう無限の闇。
 今まで自分の住むこの世界は、安定したものだと信じきって何の疑いも抱かずに暮らしていた。でも現実は、無限の闇の上に薄板たった1枚で浮かんでいたに過ぎない。もしも薄板が破れたら、その時は・・・。

 もう一度目が覚める。相変わらず、体の揺れが続いている。そしてやっぱり薄暗い船内のようだ。そうだ、自分は沖縄へ向かう船の二等船室で寝てたんだ。さっきのは夢だったんだ!そうとわかっても、あの恐怖感はいつまでも生々しく残っていた。

 まだ、「自分探し」などという言葉が一般的でなかった17年前。3年間月給泥棒をしたコンピューター会社を辞め、かと言って次のあてもなく、馴染みのあった水車むらで紅茶作りをしていた。五月紅茶と七夕紅茶の間に空いた1ヶ月間、とりあえず沖縄に行けば何かやりたいことが見つかるかも、という淡い期待を抱いての一人旅。
 しかし、自分探しの旅といいながら、スキューバダイビングの機材なんかもしっかり持参しているあたりが、今の自分に連なる世俗性、お坊ちゃんぶりを象徴していた。僕は決して求道者にはなれないのだ。
 東京-沖縄航路は、中型のフェリー(昨年、紀州沖で座礁した)であるが、全乗客わずか十数人。6月に船で沖縄などという、現代日本においてはある意味最も贅沢な時間の使い方をしている人たちである。どの顔も「まともな社会人でないオーラ」を濃厚に発散させていた。しかし、自分も同じオーラを出していくのかと思うと、それがまた鬱陶しく、誰とも言葉を交わさずに一人の世界に籠もっていた。

 船に揺られること3日半。ついに辿り着いた、日本最果ての島。
 梅雨は既に明け、最高のシーズンだが、6月にダイビングで遊んでいる人間など僕一人。ダイビングショップの親父さんが、毎日マンツーマンでガイドしてくれながら、いろんな話を交わした。
 この親父さんが豪快と言うか、いい加減と言うか・・・。僕もかなり無鉄砲な方だが、そんな僕でも尻込みするような荒れた海に、構わず突っ込んでいく。さらに、「去年はガイド中に事故でお客さんを亡くしてしまい、禁固刑で半年刑務所の飯を食っていた」、なんて話を、二人だけのボートの上で、得意げに聞かせてくれる。
 最終日、「仕事がないんなら、しばらくうちで働かないかい?三食・宿つきで、月15万円出すよ。貴方くらい上手なら、すぐガイドの資格も取れるし。でも東大出て、こんな島でガイドはないか!ハハハ」とのお誘い。一瞬ぐらっと来た。最果ての島に流れ着いてダイビングガイドになる。そんな「運命的な自分」に酔ってみたかった。でも断った。申し訳ないけれど、恐かったのだ。この人についていったら、自分もいつか海の藻屑になってしまいそうで。

 ダイビングも終わり、夕陽に照らされた集落を当てもなく歩いていると、急に場違いなコンクリート作りの建物の前に出た。「○○島診療所」の看板。
 そうか。医者になれば、縁もゆかりもない南の島でも、自由に移り住んで、土地の人と交流しながら生活していけるんだ。土地を買って、ゼロから農業を始めるよりは早道そうだ。人々に必要とされる存在なのに、周りの赤瓦の家々からは浮きあがった、真新しいコンクリの建物。そんな建物の外観が、無理矢理島社会に入り込もうとする都会育ちの自分の姿と重なり合うようにも見えた。
 医者かあ・・・

 そうは言っても医者になるには、まず医学部に入り直さないとならない。仮に入学できたとして、さらにそこから6年間の勉強生活。果たして自分にそんなことができるのだろうか。
 東京に戻り、試しに家の近くのS台予備校を覗いてみた。出てくる、出てくる、ゴキブリのように暗ーい浪人生たち。うわー、こりゃあダメだ、25歳にもなって、こんな世界にもう一度足を踏み入れるなんて、とてもできないわあ。
 そう思って早々に諦めかけた自分を後押ししてくれた(と言うよりも引きずりこんでくれた)のが、大学時代極真空手を一緒にやっていた、親友M君であった。
 彼は僕より少し前に銀行を退職し、一人で本郷のボロ下宿で宅浪生活を送っていた。全日空国際線スチュワーデスの婚約者を、面会謝絶にまでして・・・。そこまで変人の彼も、さすがに一人で受験生活を続ける孤独に耐えかねたのだろう。「君に残された道も、もう医学部しかないよ」と、毎晩洗脳の電話をかけてくるようになった。七夕紅茶作りで疲れ果て眠りこけていた深夜、水車むらのピンク電話まで突如ジリジリ鳴り出したのは、まさに「恐怖電話」。参った。
 夏、某国営放送局への再就職活動が失敗に終わった。水車むらの紅茶作りも、来年までお呼びでない。最後の悪あがきで大学時代在籍した文化人類学の勉強をちょこっとしてみたが、大学院に進学する気にはどうしてもなれない。憧れの宮大工への弟子入りは、年齢制限でとうの昔に断られ済み。以上、傍から見ると滅茶苦茶な思考回路だろうが、僕なりに必死の消去法で医学部受験に腹をくくったのは、9月であった。

 そうと決まれば、“Boys, be ambitious!”
 目指すは友と一緒にクラーク博士の北海道大学。7年半ぶりに猛然と受験勉強を開始する。ブランクのきつさもあったが、何より大変だったのがかつて文系だったため初めての物理や微分・積分。とにかくもう無駄にする時間がない。予備校などには行かず、一人で参考書を頼りに1教科1ヶ月で終えることにしていった。

 そして半年後。僕とM君は、晴れて北大医学部へ再入学を果たした。(つづく)



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