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『経済成長って何で必要なんだろう?』・読書日記
 以前、世に倦む日日で紹介されていたので読んでみた。
 本の帯に「格差・貧困に効く経済学」とあるが、経済学者の飯田泰之が、反貧困活動で有名な湯浅誠らと行った対談集である。
 読んだのはもう3週間ほど前になる。面白い論点が多かったのだが、経済学をほとんど勉強したことのない僕にはやや難解なところがあり、正直全体の半分も理解できたかどうか怪しかった。それで今まで書評を書くのをためらっていた。が、この本の経済成長礼賛の主張は、やはりどうしても心に引っかかるところがあった。
 例えば、今の携帯電話の新製品開発競争。ほとんど使いこなせないどうでもいい機能を次々とくっつけては、数カ月おきに新製品として売り出してくる。こんな「経済成長」なら要らないと思うのは僕だけだろうか。
 そんな訳で、今回、本の気になったところだけを思い出しながら、取り上げることにした。


 この本の骨子をまず書く。
 ①人間の知識の蓄積に応じて、人類の技術が進歩し続ける→
 ②生産効率が良くなり、一人当たり生産量が年2~2.5%増え続けていく→
 ③もし売れる量を増やさなければ、人手が余ってくる(即ち経済全体が横這いならば、不要となる人が出てくる)→
 ④不要とされた人の所に、しわ寄せが全て行って現在の貧困を招いている→
 ⑤だから、貧困をなくすには、年2~2.5%の経済成長を続けて雇用を確保することが不可欠である。

 しかし、この結論には、僕は、以下の2つの点で違和感を感じた。
 1、経済成長を無限に続けられるという前提には、地球環境資源が有限であるという視点が欠落している。
 2、生産効率の上昇による利得は、経済成長に向けるのではなく、ワークシェアリングによって、国民全員の余暇の増大に振り向けるべきではないだろうか。(つまり、今までと同じ量を作るだけにして、みんな仕事時間を減らそうよ。その分、家に早く帰って、自分の趣味に生きようじゃないか、という話。)そうすることによって、労働は奴隷に任せて、自らは精神と肉体の鍛錬に明け暮れていた古代ギリシャの哲人の世界が実現するはずである。(しかし、日本の大衆の意識を見ると、これは僕の希望的観測すぎるかもしれない。)


 そして、もう一点、この本の地方切り捨て論が非常に気になった。
 日本政府の再分配政策が、田中角栄以来、富者から貧者へではなくて、都会から田舎へ行われた。そのため、都市の貧困層は何ら救済されることがなく、逆に本来例えば1万人しか養えないはずの田舎にいまだ10万人も住んでいる現状が生まれた。(日本以外の他の先進国は、都市部への人口集中が日本よりもはるかに進んでいる。)経済成長を進めるためには、今後は地方に対する援助はどんどん切り捨てて、もっともっと都市部への移住を促すべきである、と飯田は主張する。
 確かに、都市住民の近視眼的な経済成長を優先する視点に立てば、地方なんてただのお荷物かもしれない。しかし、地方は本当にそんな簡単に切り捨てていいものだろうか?山林や田畑が日本中満遍なく存在する(もちろんそれを維持するためには、地方に暮らす人間の存在が必要である。)ことは、例えば国土の保全ということ、食糧の安定自給ということなど、簡単には定量化できないだろうが、経済的にも大きな意味があるのではないか。
 そして何より、人間はパン(経済)のみで生きるものではないのだ。地方の豊かな自然の中に、いつかは自分の原風景を求めたくなる生き物なのではないだろうか。

 東京の神田に生まれながら、敢えて地方の可能性を信じてここ屋久島に移住してきた私としては、生理的に彼の発想は受け入れられなかった。しかし、深刻な貧困問題を解決するための、ヒントは沢山含まれている気がした。だから、いまだ気になる本である。それで、同じく飯田と「プレカリアート」雨宮処凛による、『脱貧困の経済学』を次に読もうと思っている・・・
 
 
 

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